名称 | 竹山病院 |
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所在地 | 〒951-8068 新潟市中央区上大川前通六番町1183番地 TEL 025‐228‐7171 FAX 025‐229‐2330 |
開設者 | (財)医療法人 竹山記念会 |
理事長 | 竹山 智 |
病床数 | 53床 |
診療科 | 内科・消化器内科・産科・婦人科・小児科・アレルギー科 |
併設施設 | 病児保育室 キッズルームたけのこ |
敷地面積 | 2,021平方メートル |
建物延面積 | 3,026平方ヘクタール |
外来1日平均患者数 | 150人 |
2009年6月、竹山病院のロゴマークは新しくなりました。
竹山病院は生命と関わっています。新しい命が誕生し、命を育み、命を守る場所。それは、自然界での「山」の存在と似ています。
山は木々が集まることでできた「生命のゆりかご」。動物や植物たちが誕生し、育ち、治癒される様は、まさに自然の病院です。そのような自然の仕組みと竹山病院とを重ね合わせ、多くの人に愛される身近な存在でありたいという気持ちを込めました。
また、ロゴマークのモチーフは、昭和32年に植樹され竹山病院入口に現在も残る三本のヒマラヤ杉にも由来します。
色は、みずみずしく生命力みなぎる「フォレストグリーン」。安心感や活力、癒しを与えたいという竹山病院の思いを示します。
「和を以って貴しと為す」(わをもってとうとしとなす)※荻野久作の座右の銘
和をもって恕(おもいやり)のある質の高い医療を提供します。
健康で快適な家庭生活を支える病院を目指します。
病める人、家族のこころに沿える最良の医療を目指します。
他の医療機関との間の有機的な連携のもとに最適な医療を提供する。
患者さまにも医療に参加してもらい、信頼される病院、感謝される病院を目指します。
患者さまの権利を尊重し、心の通った医療を目指します。
患者さまに分け隔てなく治療と看護を行います。
患者さまのプライバシ-を尊重します。
患者さまの同意のもと医療を行ないます。
1. 良質の医療を受ける権利
2. 選択の自由の権利
3. 情報を知る権利
4. 自己決定の権利
5. 機密保持の権利
6. 尊厳を得る権利
7. 情報を提供する責務(自身の健康に関する情報をできるだけ正確に提供する責務)
8. 医療に協力する責務(提供される医療に協力し、他の患者さまの治療に支障を与えないよう配慮)
1. 笑顔であいさつをします。
2. 私や家族が受けたい看護を目指します。
3. 専門職として自己研鑚します。
個人情報保護に関しても全力で取り組んでおります。
個人情報:皆さんの住所・氏名・電話番号・電子メールアドレスなど、特定の個人を識別できる情報を言います。
当院においては、提供頂いた個人情報が外部へ漏洩したり、破壊や改ざんを受けたり、紛失することの無いよう厳重に管理致します。
個人情報の開示(使用)は病院業務に必要な場合(例えば下記の如く)のみ必要最小の範囲で皆さんの個人情報を利用させていただきます。
①医療提供(外部委託業者にも)
・当院での医療サービスの提供
・他医療機関・薬局・介護サービス事業所などとの連携
・皆さんの診療のため、外部の医師などの意見・助言を求める場合
・検体検査業務などの業務委託 など
②診療費請求のための事務
・審査支払い機関へのレセプトの提出
・審査支払い機関又は保険者からの照会
・公費負担医療に関する行政機関などへのレセプトの提出、照会への回答
・医療・介護・労災保険及び公費負担医療に関する診療費請求 など
③当院の管理運営業務
・会計・経理
・医療事故などの報告(法的な手続きに基づき)
・入退院時の病棟管理 など
④その他
・企業等から委託を受けて行う健康診断等における、企業等への結果報告
・症例や事例の学会、学術誌などへの発表・報告
・当院内での症例研究
以上、他の医療機関等への情報提供について同意しがたい事項のある場合は、その旨をお申出下さい。
竹山病院は新潟市の上大川前通りにある。信濃川にほど近い市の中心部である。約千坪の土地に、外科、内科、婦人科あわせて六十床の木造の病院と、院長の竹山正男の私邸と土蔵が二つ建っている。(荻野)久作が就職して4年目の大正四年、石造り二階建ての本館が落成した。<篠田達朗著『法王庁の避妊法』より引用>
竹山病院の起源は明治18年(1885)、竹山 屯(たむろ)が、信濃川にほど近い市の中心部である 新潟市上大川前通り6番町に「日新堂」と称する医院を開業したのに始まっている。
明治36年には、娘婿である沢田敬義(のちに新潟医大教授となる・新潟市名誉市民)を迎えて内容・外観ともに新潟市の一偉観と称せられた洋館の病院を新築した。これを期に竹山病院と改称した。
明治41年の新潟大火の際に類焼したが、仮建築をもって対応し、大正4年~大正13年の期間に増・改築を行ない今日の旧館を本館とした外科・内科・産婦人科あわせて60床の病院の形態が整った。
昭和11年 、第2次世界大戦に際して救護病院に指定され公的医療機関としての性格が強くなり、当局の勧誘に従い昭和20年8月より「日本医療団」に経営を移管した。
戦後、昭和25年9月「日本医療団」が解散し病院の返還を受けるに当たって、当主竹山初男が父祖伝統の精神に鑑みると共にその光栄を記念するために寄付行為に依り財団医療法人を組織し、医学の研究を行ない、病院を開設して社会福祉の増進に寄与すべく医療法人「竹山記念会」を設立した。
昭和30年の新潟大火にて全館類焼したが、2ヶ月後に病院を再開し、住民の医療に尽くした。昭和32年に本建設となった
平成10年には6階建ての産婦人科を中心とした新病院が完成し、現在に到る。
このように、120年以上にわたって時代の変遷と地方の実情に即して設備と内容を整備し、地域医療に専念してきた歴史のある病院です。
慶応元年長崎に留学して医学を学び、新潟県医官となり、新潟医学校長(現新潟大学医学部)の職に就いて医育に尽瘁し、特に明治11年明治天皇の北陸巡幸に際して越後に入ってから沿道の住民に目の悪い者が非常に多い事に気付かれ病院長にご下問があり、その原因を当時として非凡な卓見をもってこれに奏上したことにより、ご下賜金を賜り眼疾の治療及び予防に尽くすようご沙汰があり、これを記念した石碑が現在も新潟医学所跡地に建立されております。竹山病院開設者。