荻野久作

荻野久作(第3代竹山病院院長、竹山記念会初代理事長)は、1882年(明治15年)3月25日愛知県八名郡下条村(現豊橋市下条東町)の農家の次男に生まれ、幼少から成績優秀でその秀才ぶりを認められ、1900年(明治33年)愛知県幡豆郡西尾町に住む漢学者の荻野忍に望まれ養子になり、豊橋尋常中学時習館に進み養父のはからいで1902年(明治35年)に東京麹町区私立日本中学校4年生に編入転校し、1905年(明治38年)第一高等学校を卒業し養母の勧めで医者を目指し東京帝国大学医学部に入学。

1909年(明治42年)卒業後は、産婦人科教室(木下正中教授)に入り、母校で研究に励み、1910年(明治43年)に大学副助手として附属病院に勤務した後、経済状態の苦しい荻野家では生活を支えられず1912年(明治45年)東京帝国大学医学部長入沢達吉教授、後の大正天皇の侍医頭(竹山病院初代院長屯の姉の子)の推薦で新潟にある竹山病院の産婦人科医長として働くことになる。同時に新潟医大の病理学教室にも籍を置き、川村麟也教授のもと、排卵学説の研究を完成する。

1929年(昭和4年)まで足かけ8年間病理学教室に在籍。一民間市中病院の産婦人科臨床医でありながら偉大な足跡を残した、その主要な業績は、排卵、受胎の時期に関するいわゆる「荻野学説」の提唱であり、また他方、子宮頚癌に対する「岡林術式荻野変法」の確立である。

なお、これらの業績により、第二回世界不妊学会名誉会長、ブラジル産婦人科学会名誉会員、日本産婦人科学会名誉会員、新潟市名誉市民、勲二等旭日重光章、紫綬褒章、日本医師会最高優功章、朝日文化賞、第四銀行賞など様々な栄誉を受けている。

1975年(昭和50年)1月1日自宅で妻トメにみとられ93歳で逝去
1月19日新潟市公会堂にて新潟市と竹山病院合同葬儀
自宅前の市道が市民の発意で「オギノ通り」と名付けられる
新潟下町日和山共同墓地に眠る

現竹山記念会 竹山病院理事長 竹山 智は荻野久作の曾孫であり、「地域のための医療」の精神は脈々と現在も引き継がれている。